淵にゆれる
喉が渇いていた。
おれは日が暮れようとする山の中をさまよっていた。山に入ったのがまだ明けきらぬ頃だったから、半日ほどずっと山にいることになる。その間、何も口には入れていない。
どうしておれがこんな山の中に分け入ったかというと、おれは植物採集が趣味であり、この辺りは珍しいものが多いと同好の士から聞いたからだ。
恋は人を盲目にするというが趣味もまた高じれば同じようで、おれは時間も忘れて奥へ奥へと入りこみ、このていたらくだ。昼ごろには山を降りて名物のそばでも食おうかと思っていたので、弁当も水筒も持っていない。
腹が減るのはまだなんとかなるが、喉が渇くのは我慢できなかった。空気は乾燥しているし、歩き回って体が水分を欲している。唇もカサカサになり、口の中まで渇いて張り付くようだ。小川でもあればと思ったが、それも見つからない。いまならミネラルウォーターを千円で買ってもいい。ジュースなら三千円出してもいい。
そう高くない山のはずだが、高かろうが低かろうが出られなければ遭難である。おれは一人暮らしであり、誰にもこの山にいることは告げていないから助けてもらうことも難しい。だめもとで試してみたが、携帯電話は通じなかった。もともと最寄の駅についたときでも圏外だったのだから当然ではある。
また間の悪いことに長期の休暇をもらったので、会社の人間が気がつくのも遅くなる。なんとか自力で山を抜け出さないといけない。
勘でもって低いほうへと歩を進めているつもりだが、いつの間にかまた木が欝蒼とするところに迷い込んでしまう。いっそ高いところに昇って見渡せば活路も開けるかと気づいたのがついさっきのことだ。
こんな山の中で夜を過ごすのは御免こうむりたい。風呂に入って暖かい布団に入るのだ。人間は山の中で眠る生き物ではない。冬はまだ訪れていないとはいえ、晩秋の山の冷え込みもけっこうなものだろう。
夜になってしまえば意味がないので、おれは気力を振り絞って頂上を目指した。おかしなことに、というか幸運なもので、頂上にはすぐにたどり着けた。日は暮れきらず、あたりの様子が見渡せた。おれがやってきた街のほうははるか遠くに見えた。やはりどんどん遠くに歩いてきたらしい。その距離を目で測るに、今日中にあそこまで戻るのは無理と思われた。とても夜の山を踏破する気にはなれない。
その逆に目を転じると、滝のようなものを見つけた。水だ。水が大量に流れている。
街に戻るのはあきらめ、あそこに行って喉の渇きをなんとかしよう。そう考えると足に力が入った。
二十分ほど歩くと、水音が聞こえてきた。なんとなく空気も水気があるような気がする。そのわずかな湿り気を求めるようにおれの口は金魚のようにぱくぱくとした。
滝の周りはぽっかりと開けていた。けっこう水量があり、勢い良く水が流れ落ちている。絶えることなく水面を叩きつける直瀑である。まっさかさまに白い柱となっている。
もし間違って足でも滑らせようものなら、滝壺へと落ち込んで助かりそうになかった。長年削られ続けた淵はかなり深いものになっているだろう。流れも激しい。
凄まじい飛沫でよく見えないが、滝壺のところに何かがゆらゆらしている。海藻のようにも見えるが、そんなものがあるわけもない。
淡水に生えるものであれほど細長い藻があっただろうか。おれは植物採集が趣味だが、こと水の中のものになるとさっぱりだ。興味もわかないので意識の外に置く。
用心して石を踏みしめ、おれは水をすくった。冷たい。だが歩きづめで適度に温まった体には丁度よかった。二度三度と手で水をすくい、がぶがぶと水を飲んだ。
そのとき、口の中に何か違和感を感じて、飲むのを止めた。指を入れて、異物を取り出す。白く、細長い。釣り糸にも似ているが、ナイロンのような人工物ではない。さっき滝壺で見たゆらゆらした藻がちぎれたものだろうとおれは判断した。
しばらく手ごろな石に座り込んで休憩を取ると、さてこれからどうするかと考えた。
街に戻るのは諦めた。それでも眠くはなるだろうし、そうすれば寝るに適した場所を探す必要があるだろう。それと川を下っていけば人里へも近づくはずだと考え、おれは立ち上がるとまた歩き出した。この日のために新調したトレッキングシューズはもう一年も履きつぶしたように汚れく、たびれていた。
日はもうとっぷりと暮れている。川は次第に少しづつ広く、流れはゆるやかになっていく。洞窟でもあればと思ったが見つからない。大きな木の下で落ち葉でもかき集めて眠ったほうがいいかもしれないと思い始めたとき、おれの行く手に灯りが見えた。
明々としたものではない。それでも、人工的なものであることはわかった。山の上からでは見えなかったが、小さな里でもあるのだろうか。ともあれ、人が住んでいるのなら有難いことだ。宿はあるかどうかわからないが、屋根の下で寝ることは出来るだろう。田舎の人なら飯ぐらいごちそうしてくれるかもしれない、と甘い希望も沸く。欲望が出てくるのは人間の証だ。
虫のように灯りを目指して進むと、やはりそこは村だった。「村」という言葉がまさにぴったりくる。道路は舗装されていないし、街灯や電柱がひとつも見当たらなかった。開けた土地は田んぼか畑だろう。そこにぽつりぽつりと小さな萱葺きらしき家が散見できる。 おれはしばし、その場に立ちすくんだ。安心が半分、ここまで田舎な村があるのかという驚きが半分。いままで気づかなかったが、そこでおれは腕にかゆみを感じた。ウルシにでもかぶれたのだろうか。やっかいなことだ。
選り好みしても仕方がなかろうと考え、おれは一番近い民家へと向かった。
近づいてみると、時代劇でしか見たことのないような古風な家だった。さっきも確認したように電柱もないし、プロパンガスのボンベもない。湯沸かし器も見当たらない。パイプらしきものも見当たらない。もちろんエアコンの室外機もない。電気やガスが通っていないのだろうか。この村全体がこういうふうになっているのだろうか。
おれはいろんな疑問を抱きつつも、ごめんくださいと声を張り上げて扉を叩いた。
しばらくして家の中で物音がし、扉が開かれた。
顔を出したのは化粧っ気のまったくない中年の女性だった。身につけているのは渋い色の和服で、家もさながらこの女性も時代劇から抜け出てきたようだった。ざっとおれを足元から眺めると、扉を大きく開いておれを招じ入れた。
「迷われたんじゃろ、腹は減ったかね」
そのようなことを言った。女性の言葉は訛りがきつく、外国語のようだった。
おれは礼をいいながら囲炉裏のそばへと座った。そう、囲炉裏である。作り物ではなく、そこでは炭が赤くいこっている。
家の四隅は闇である。そこまで灯りが届かない。
「ありがとうございます。お礼は払いますので」
無粋かと思いつつも、おれは財布から万札を出して女性に差し出した。こういうことは早くしておいたほうがいい。
遠慮するかと思ったが、女性は不思議そうに万札を見たあと黙って懐に入れた。少し予想外の行動だった。
囲炉裏の火にあたって暖かくなったせいか、先ほど感じたかゆみは強くなっていた。おれはブルゾンの上からかきむしる。腫れてきているようだった。いまいましいが、かかずにいるほうがいいのかもしれない。
「芋を煮たのしかないが、よいかね」
贅沢をいえる身分ではない。しばらくしてできあがってきたのは本当に芋しか入っていない芋煮だった。味もきわめて薄かったが、腹が減っていたのでおれは遠慮せずにいただいた。
芋煮をかきこんだあと、やっと人心地がついたおれは女性に尋ねた。彼女はタネというそうだ。この家にはひとりで住んでいるという。そして、こんなことを言った。
「明日には、おまんの住むとこを決めにゃならんな」
何かの冗談かと思ったが、タネは真剣のようだった。確かに田舎でいい場所だと思うが、こんなところに住むつもりはない。電気もガスも通ってないところで生活なんかやってられるか。そうまくしたてたが、タネはおれを冷たく見ると、次のようなことを語り始めた。
かつて、この村で流行り病が蔓延したことがあった。何年とはタネは言わなかったが、出てくる言葉から察するに江戸時代ごろのことだと思う。
原因もわからず、ぱたぱたと若い者も老人も、男女の区別もなく倒れていく。その年は不作も重なって、村の人間は半減した。
体中に紫の吹き出物ができて、弱って死んでいくという。昔のことで定かではないが、おれが推測するに悪質なウイルスか菌による、感染力の強い病気だったのだろう。
ようやく遠い街から呼び寄せられた医者が、昼夜なく村人の診療にあたった。いくらかの人間は助かったが、疲労して多くの患者と接触した医者も病にかかり、この村で命を落とした。
その結果、ひとりの老人が残った。医者が死ぬまでに作った薬も効かず残った最後のひとりである。流行り病はすっかりおさまり、老人から誰かほかの村人に感染することもなかった。
とはいえ、老人は村人から気味悪がられ、疎んじられた。村からはなれたところに外から錠をかけられる狭い小屋に老人を閉じ込めた。
それから何年か経った。不思議なことに、老人はまったく年をとる様子がないのである。ろくなものも食べていないはずなのに、弱ることもなかった。奇妙に思った男が、見張り番のときに飯を何日もやらなかった。それでも老人は空腹を訴えることがなかった。
村人が老人に抱く感情は、気味悪さから恐怖へと変わっていった。
若者たちが老人を小屋からひきずりだして、殴る蹴るの暴行を行った。全身から血がにじむまで痛めつけても、小屋に放り込んで朝が来るとなんともないように座って小声で念仏など唱えている。
そんなことが何回か行われたが、やはり老人は次の日になると傷も癒えているのである。
村では寄合がもたれその結果、老人を殺してしまおうということになった。流行り病の感染者であり、奇妙な回復力ももっている。生かしていればいずれ村のためにはならない、ということになった。
日ごろ老人を痛めつけていた若者たち数人にその任務が命じられた。
彼らはいつものように老人を連れ出し、ぼろ雑巾のように痛めつけたあと、どこかに連れて行って老人を処分した。
彼らはどう老人を処分したかは言わなかったが、これで確実にあの老人も生きて帰ってこれまい、と請け負った。
「そこからじゃよ。この村がおかしくなったのはの」
「おかしく……なった?」
まず、子供たちが成長しなくなった。それがまず気づかれ、誰も年をとっていかないことがわかったのである。時が止まったように誰も死ぬことなく、新たに赤ん坊が生まれることもなかった。
そして、もともと外と交流のない村であったが、村を出ることもできなくなった。迷った末、この村に戻ってきてしまうのだという。
「誰も死なんようになったが、この村は病にかかったんじゃ」
「そんな馬鹿な話が」
SFでもあるまいし、そんなことがあるわけはない。
「たまにあんたみたいに迷い込んでくるもんもおるがね。久しぶりじゃよ。明日は村のもんからいろいろ聞かれるだろうよ。おかげで変化がまったくなくてね。遠い国とやってるとかいう戦争はもう終わったのかい?」
そうだ、これはタネがおれを騙そうとしているんだ。退屈な村だから、こうやって外からやってくる旅人をかついで楽しませるのがここのしきたりみたいなものになっているんだ──そう考えないと、おれまで頭がおかしくなりそうだった。
腕のかゆみはいっそうひどくなっていった。タネのたわごとはこの際どうでもいい。一宿一飯の恩は感じるが、こんな戯言はつまらないの一言に尽きる。趣味がよくない。金も渡したのだ。明日はさっさとこの村から出て、街まで戻って、電気もガスも通った家に戻って、ベッドで眠るのだ。
とりあえず、この腕のかゆみをどうにかしたかった。
「すみません、なにか塗り薬はありますか。ウルシか何かにかぶれたのか、かゆくてたまらないんです」
不機嫌そうにそういうと、タネは満足そうな変な笑いをうかべた。
「ああ、それならすぐおさまるよ。明日になれば止まるさ。こらえな」
その返答に腹が立ったが、それ以上にかゆみがひどかった。おれはブルゾンをひきちぎらんばかりの勢いでかきむしった。かかないほうがいいと思いながらも、手を止めることが出来なかった。
「水を飲んだろ。この村に来るもんはみんなそうだ。んで、みんなそうなる」
「水って……あの滝のことですか」
「そうよな。ああ、さっきの話で忘れてたよ。じいさまの殺され方をね。その滝でな」
「滝で」
「おう。若衆にいたぶられたのち、滝に突き落とされたんだよ。むごい話じゃ」
タネはいきなりおれの腕をとると、ブルゾンをまくりあげた。
「おんしも、もうこれで村の人間じゃよ。みんなひとつずつ持っとる」
腕をまくると、五百円玉をひとまわり大きくしたような、紫色のできものが膨れ上がっていた。
それはごつごつと膨れ上がり、老人の顔のように見えた。
-終-
